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渡辺華山

渡辺華山(わたなべかざん)といえば、画家としてはもちろん藩士や学者としても活躍するなど、その生い立ちを知るととても奥深い人物なのがわかると思います。生涯の最後は切腹をして亡くなるなど49歳の人生とは思えないほどの歴史が残っています。

寛政5年に江戸の麹町田原藩邸にて長男として誕生しました。父親は留守居添役仮取次としての仕事をしており、11名の家族だったこともありとても貧しい生活をしていました。そのため幼い弟や妹を奉公に出さなくてはいけないなど、とても厳しい生活をしていたようです。

渡辺崋山自身も絵を描く内職をしながら学問に励みました。天保3年に家老に就任するとさまざまな指導を通して餓死流亡者を出さず、田原藩を表彰に導くなどの功績を残しています。37歳のときに藩邸学問所の総世話役になっています。

画家としては、26歳の頃にその才能を認められ有名になりました。32歳以降は外国事情にも感心を持ちさまざまな研究を始めています。無人島渡航計画の噂を聞きつけた幕府によって捕えられ、在所田原へ蟄居になります。「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書を残し切腹し亡くなりました。

渡辺華山の作品

・月花鳴機図

渡辺崋山の作品を見ると、遠近法を取り入れた絵を描くのが上手な画家といったイメージもあるように、この作品もまさにその特徴をしっかりと取り入れたものになります。家屋や樹木に陰影がうまく描かれていることも技術力の高さが伝わってきますね。繊細に描かれた作品のなかでもじっくりと眺めたくなくなる、奥深い作品の一つです。穏やかな人柄が伝わってきますね。

・名花十友図

34歳のときに描いた作品だといわれています。下部にスズメが描かれており、そのうえに梅や菊・バラ・クチナシなどの色鮮やかな花々が咲き誇るとても美しいものです。没骨描法と呼ばれる東洋絵画の技術を用いて描かれたものになり、水墨を使いつつ輪郭を使わずに描いています。中国の画家である惲南田の影響を受けた画法ともいわれています。

・まとめ

渡辺崋山はとても世話焼きで穏やかな弟子にも好かれる人物だったといわれています。正直49歳の若さで亡くなるにはとても惜しい人物でもあります。画家が本業ではなかったものの、精力的に描いた作品が多くどれも時代を超えて高く評価され続けています。渡辺崋山の作品はどれも繊細だからこその魅力があり、他の画家にはない素晴らしい技術が隠れているのではないでしょうか。

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