1922年、平和記念東京博覧会で、「指」が2位のトロフィーを受賞し、同じ年に中国を訪れます。1927年大井町で深水画塾を結成し、1932年に人物画の復興を目的とした「青々会」を発足。1935年には勝田料亭の女将勝田麻起子と深水の子ども、雪会(後の朝丘雪路)が生まれます。1939年に再び中国を訪れています。1943年軍に入隊し、海軍記者団として南方諸島に派遣されます。その間4000枚のデッサンを描きました。太平洋戦争中、東京空爆をさけるため1945年3月から1949年8月まで長野県小諸市に疎開します。1948年第4回日本芸術院賞を「鏡」で受賞。翌年鎌倉に転居し1950年後進の画家を指導するため白鳥映雪、児玉希望、奥田元宋、佐藤太清等と日月社を結成します。日本芸術院会員として初めて審議されたのは1958年でした。1972年5月8日癌のため永眠します。75歳でした。東京都品川区上大橋の隆崇院に埋葬され、法名は画光院一誉明澄深水大居士となっています。
TEL0120-554-110