尾形乾山は、1663年に京都の呉服商の三男として生を受けました。尾形光琳は、実の兄となり兄弟仲は良かったものの、性格が対照的で堅実な性格をしていたと言われています。暮らしも質素で、読書家としても知られています。37歳のときに尾形兄弟に興味を持っていた二条綱平が、京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えられたため、窯を開きました。方角から「乾山」と名づけ、作品にも記したそうです。自由な作品のなかに、洗練された美しさもある作風をしていました。素朴な味わいに特徴があるため、兄弟合作で作られたものも多く見かけます。
69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り、下野国佐野で陶芸の指導を行い江戸に戻ると81歳で亡くなりました。辞世は「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」と残しています。