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下村観山

最初に師事したのは祖父の友人、藤島常興でした。常興は狩野芳崖の父狩野晴皐の弟子であったため、その息子芳崖に観山を紹介します。観山初期の号「北心斎東秀」を授けたのは芳崖とされ、1883年(明治16年)10歳の時には使用していたといわれています。1886年(明治19年)芳崖が絵画制作で忙しくなり、親友の橋本雅邦に観山を託します。1889年(明治22年)東京美術学校(現東京芸術大学)に第一期生として入学。卒業後、同校で教えていましたが、1898年に岡倉覚三(天心)が下野した際に共に行動し、横山大観、菱田春草らと日本美術院の創設に加わります。1903年2月21日文部省留学生として横浜港からイギリスへ渡り、同年12月10日に帰国しています。岡倉天心が、茨城県北部の五浦海岸へ日本美術院を移した時、大観、春草、木村武山らと同地へ移り住み絵画制作に励みます。1917年6月11日帝室技芸員の称号を授かり、1930年死去します。

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